沿革
その後今日に至るまで、ドイツの起業家一族と多くの社員が、ヘンケルをグローバル企業に築きあげたのです。
1876
1876 年 9 月 26 日、ドイツのアーヘンに 28 歳の Fritz Henkel と二人のパートナーがヘンケル & シー社を設立しました。同社の最初の製品は、水ガラスをベースにした粉末洗剤でした。当時すべての類似製品は個別包装せずに量り売りされていましたが、この衣料用洗剤は、手軽な袋詰めで販売されました。
カナダのプリンスエドワードアイランドの William E. LePage が、魚から接着剤を製造する方法を発見。彼は会社を設立し、まもなくカナダ、アメリカ、ヨーロッパのお客様に製品を提供するようになりました。1995年にヘンケルはLePageを取得し、プロ用およびDIY用接着剤でカナダのマーケットリーダーとなりました。
1877
Ernst Sieglin (1848 - 1927) がアーヘンで粉せっけんの製造を開始。イギリス、ブラッドフォードのRichard Thompson博士と共に、彼は石鹸を粉末にすることに成功したのです。Sieglinは、1880年にドイツ、オランダおよびベルギーの独占販売権を獲得しました。ヘンケルは1929年、デュッセルドルフにあったThompson博士所有のSeifenpulver GmbH の株式を取得し、1933 年には単独株主になりました。
1878
ドイツで初めて、ブランド名を冠した洗剤が登場しました。「Henkel’s Bleich-Soda (ヘンケルの漂白ソーダ)」は、手頃な価格で、丈夫な紙の袋入り。水ガラスとソーダから製造されたこの製品は Fritz Henkel 自身の研究の成果です。ソーダはDuisburgの Matthes & Weber 社から購入していましたが、ヘンケルは 1917 年に同社を買収、1994 年に売却しました。
より良い輸送の便と販売機会を求めて、ヘンケルはライン地方のデュッセルドルフに会社を移転しました。デュッセルドルフはルール地方の玄関口で、19 世紀以降ドイツ帝国で最も重要な産業地区になりました。
1879
Fritz Henkel が会社登記上の単独所有者になりました。「ヘンケルの漂白ソーダ」の売上は急速に上昇し、わずか 1 年の間にデュッセルドルフのシェッシェン通りに借りていた工場では需要を満たすことができなくなりました。Fritz Henkel は、鉄道が整備された場所に自社工場を建設することを決定しました。
Ernst Sieglin は「Dr. Thompson's Seifen-Pulver - Marke Schwan」という商標名で、個別に包装した洗剤を定価で販売しました。これも、ドイツ初のブランド名を冠した製品の1つです。
1880
ヘンケルはデュッセルドルフ - オーバービルクのゲレシェイマー通りに用地を購入し、1880 年 10 月に新工場の建設が開始されました。
1881
ドイツのハノーバーで、Ferdinand Sichel (1859 - 1930) が世界初のそのまま使用できる室内装飾用のりの製造に成功しました。ヘンケルは 1962 年に Sichel Werke AG Hannover を買収しました。
ケムニッツで、Theodor Böhme が医薬品、染料、技術製品を販売する事業を設立。1902 年に同社は、Cirine というブランド名で独自の床磨き剤の製造を開始し、1906 年に硫酸化油と油脂を製造する化学工場が建設されました。ヘンケルは 1935 年にケムニッツの Böhme Fettchemie 社の株式を購入し、1941 年には残りのすべての株式を取得しました。
1882
6 月下旬、 19 名のヘンケル工場作業員に「Allgemeine Fabrikarbeiter-Unterstützungskasse in Düsseldorf」(デュッセルドルフの一般工場作業員の支援資金)への加入が義務付けられました。1883 年に公的一般健康保険制度の義務付けがドイツに導入され、1884 年には Gemeinsame Orts-Krankenkasse Düsseldorf (デュッセルドルフ共同現地疾病手当基金)が設立され、すべての工場作業員が加入しました。
1883
資金の流動性を高め、営業スタッフを有効に利用するため、Fritz Henkel は洗剤に加えて新たな商品も販売することを決定しました。 1884 年に販売開始した製品ラインは、ウルトラマリン着色剤(洗濯青み剤)、つや出し洗濯用のり、液体クリーニング剤、クリーニング用ポマード、牛肉エキス、ヘアポマードなどでした。
1884
原材料サプライヤーからの独立性を高め、また企業独自の高品質の水ガラスを製造するため、Fritz Henkel は以前のパートナーから Rheinische Wasserglasfabrik を買収し、プラントと設備すべてをデュッセルドルフに移転しました。
化学工場 Landshoff & Meyer がベルリン - グリューナウに設立されました。1986 年、ヘンケルは Chemische Fabrik Grünau の株式を購入。同社は第二次世界大戦後、バイエルン州イラーティッセンに移転されました。
1885
ヘンケルは 、初めてドイツ国外の展示会、アントワープでの国際産業展示会に出展。1886年には優等証書が授与されました。
ヘンケルは、ドイツ帝国で設立された Berufsgenossenschaft der Chemischen Industrie (化学産業労働者用補償保険)に加入しました。
1886
ヘンケルは、オーストリアにドイツ国外初の営業所を開設。前年には、Carl Patheがウィーンに代表者として赴任していました。
米オハイオ州、シンシナティの Emery 社で、化学者 Ernst Twitchell が油脂化学分野の集中的な研究を開始しました。1900 年には、Twitchell プロセスを開発。ヘンケルは、1909 年にこのプロセスを最初の油脂加水分解工場で採用しました。後継会社の Emery Industries Inc は現在、アメリカの Henkel of America Inc の子会社です。
1887
「Henkel's Thee (ヘンケルの紅茶)」の梱包と世界規模の販売が始まり、その活動は 1913 年まで継続されました。Henkel's Thee はドイツ初のブランド名を冠した紅茶で、香りを逃がさない化粧缶入りで販売されました。当時、紅茶は個別包装せずに量り売りで保管販売されていたため、香りがすぐに失われていました。ピーク時の紅茶の売上は、企業全体の 10 % 以上にのぼりました。
1888
Ferdinand Sichel が初めての、そのままで使用できる壁紙用のりを開発しました。1881 年に開発された室内装飾用のりと Sichel の壁紙用のりは、何世紀にもわたる作業方法に瞬く間に革命を起こし、使用の成果を著しく向上させました。
ヘンケルのデュッセルドルフの事業所では、2 つめの水ガラス炉の建設が必要になりました。水ガラス炉では、毎週 20 トンの砂、10 トンのソーダ、20 トンの石炭が使用されました。こうした原料の準備は手作業で行われ、埃っぽい重労働でした。
1889
ヘンケルは、初めてオランダとスイスでお客様との取引活動を行いました。
19 世紀後半には、ヘンケルは新しい時代を迎えました。外勤営業の営業区域を開発したのです。お客様を年に4回ほど訪問、その範囲はドイツのバルト海地方に始まり、その後東ドイツ、中央ドイツに及び、1896 年には、ドイツ全土を網羅するようになりました。
1890
デュッセルドルフのヘンケルは繁栄を続け、企業売上高は 518,000 マルク、製造量は 1,973 トンに達しました。製造量が増加したため、新たな倉庫の建設が必要になりました。
1891
R. Thompson & Co 社が Ernst Sieglin, 「Fabrik von Dr. Thompsons' Seifenpulver (Ernst Sieglin、Thompson 博士の粉末せっけん工場)」に社名を変更。1896 年、Sieglin はデュッセルドルフの Erkrather 通りにプラントを建設しました。この事業所には現在、 Thompson-Siegel 製品ライン、Henkel Bautechnik のオフィスがあります。
1892
Sichelが製品範囲を拡大し、繊維仕上げ剤、消費者向け技術製品、さまざまなプロ用および工業用の接着剤を含むようになりました。1896 年、Ferdinand Sichel は会社をハノーバー近くのリマーに移転。現在は、ヘンケルのプリット製造会社になっています。
1893
ヘンケルはイギリス、イタリアと最初の事業提携を結びました。
17 歳の Fritz Henkel jun. (1875 - 1930) が見習いとして入社。商業的な研修を受けた後、彼は父の右腕となってヘンケルのブランド製品事業を堅実に発展させました。すでに成功していた広告をさらに発展させ、企業のフィールドサービスの責任者となりました。
1894
ゲレシェイマー通りのヘンケル工場が、デュッセルドルフの下水網とつながりました。事業所の地形の問題により、早急に必要だった鉄道への接続が妨げられ、Fritz Henkel の多くの希望は足踏み状態を余儀なくされました。
1895
1895 年 3 月、ライオンのマークが商標登録に加わりました。1878 年以降、「ヘンケルの漂白ソーダ」 のブランド名とライオン、紙袋のパッケージは、商標として専有権が確保されました。
ヘンケル工場で、新しいガス溶解炉が稼動開始。ガス燃焼のため、炉は昼夜を問わず使用でき、液体の水ガラスは個別のバッチではなく継続して製造できるようになりました。
1896
「ヘンケルの漂白ソーダ」を商標登録。当時、すでにヘンケルの製品は、ドイツ帝国の 280 の町で販売されていました。
1897
すべてのヘンケルの原材料と最終製品は、馬車で輸送されていました。この輸送の問題と、基本的な企業ポリシーにより、Fritz Henkel は再度移転を計画。目的は、事業の一層の成長をうながし、そして念願だった然るべき鉄道と港への接続を図ることでした。
ヘンケルは、水ガラス製造の副産物として生まれるカリ肥料、Martellin を開発。Martellin は 1898 年に最初に市場に登場し、主にタバコ、ホップ、ワインの栽培に使用されました。
1898
ベルリン、シャルロッテンブルグの薬局と香水製造所を買い取った Hans Schwarzkopf (1874 - 1921) は、シュワルツコフ社を創立。同社はのちにドイツ最大級のコスメティック事業の1つになりました。ヘンケルは 1995 年シュワルツコフを買収しました。
マンハイムでビジネスマンの Theodor Ross (1868 - 1939) が会社を設立、消費者向け技術製品を製造しました。当初は家庭用と工業用のクリーニングとケア製品を生産。ハイデルベルグの後継会社、テロソンは、1991 年にヘンケルに買収されました。
ブレーマーハーフェン近郊の Geestemünde に Transiederei Pust & Neynaber が設立されました。1968 年に Loxstedt 近郊の Oscar Neynaber & Co AG がヘンケルに参入し、ヘンケルはPVC 処理の潤滑剤の市場リーダーになりました。
1899
Fritz Henkel は、デュッセルドルフの南、田園地帯ホルトハウゼンに 54,846 ㎡ の用地を購入。
7 月 22 日に漂白ソーダ工場、水ガラス工場、作業所付きのボイラー室、オフィスの為の礎石が定められました。
水ガラス、ヘンケルの漂白ソーダ、ヘンケルの紅茶、Martellin 肥料の年間売上高は百万マルクを超過。水ガラスの主なお客様は、 Degussa でした。
1900
3 月に製造を開始したホルトハウゼンの新しい事業所は、年末までに生産量 8,225 トンに達し、旧事業所の 1899 年度生産量に比べ 66 % の伸びを示しました。
「ヘンケルの漂白ソーダ」 500 gパックの売上高が 1 千万個を超えました。
「Schwan」という言葉の標章が Ernst Sieglin, Fabrik von Dr. Thompson’s Seifenpulver に登録されました。
1901
1902
花用肥料 Floral が発売され、この製品は1917 年まで展開されました。製品の成功は、窒素、リン酸、可溶性シリカが豊富に含まれていることによるものです。
1900 年以降、事業所の未開発部分は、テスト区画として合成肥料の実験に使用されました。
1903
シュワルツコフが、現在おなじみのブラックヘッドのマークを付けて、ドイツ市場初の洗髪パウダーSchaumpon を発売。それまでの洗髪は、ナトリウムせっけんまたは高価なオイルで行われていました。1904 年 5 月、このマークはドイツ帝国特許庁で商標として登録されました。
コロンでは、ビジネスマンの Eugen Wolff と Oskar Siegel が、Chemische Fabrik Siegel & Co. を創立。1966 年、最も知られた製品名にちなんで Sidol-Werk Siegel & Co に社名を変更した同社は、Thompson 社と企業契約を締結。1969 年にはこの 2 社が合併して Thompson-Siegel GmbH を設立しました。
1904
フランスで Diadermine が開発されました。Diadermineフェイシャルケア製品は、効果が大変高かったため、1950 年までは薬局だけで販売されていました。1981 年以降、 Diadermine ブランドはその他の欧州各国にも導入。同ブランドは1980 年からヘンケルの一員になりました。
7 月 25 日、Fritz Henkel jun. はヘンケルのパートナーになり、その後統括通商パートナーになりました。当時、ホルトハウゼン事業所は 110 名の社員を雇用していました。
1905
4月25日、Fritz Henkel sen. の末息子 Hugo Henkel sen. (1881 - 1952) 博士が化学者として入社。彼は化学製品と技術を担当し、組織的な研究の基盤を整え、先端技術と新規の原材料を導入しました。1908 年、彼は個人的に責任を持つ企業のパートナーになりました。
多くの社員が、デュッセルドルフからホルトハウゼンに転居。ヘンケル工場があった 5 年の間に、ホルトハウゼンの住居数は90 軒から 177 軒と 2 倍近くに増え、居住者数も 600 人から 1,884 人と、 3 倍以上に増加しました。
1906
ヘンケルは洗剤、漂白剤、過酸化物の化学研究を開始。Hugo Henkel 博士の学友であった化学者 Hermann Weber 博士が、粉末洗剤中の漂白剤として酸素を含んだ塩を活用する特殊研究を担当しました。
Cordes & Co GmbH 社がベーゼルのミンデンに設立されました。同社は、接着剤を専門とし、特に(後年)壁紙産業用の合成樹脂分散接着剤を製造。1970 年に Cordes はヘンケルの一員となりました。
製造を開始して6年が経過したホルトハウゼン事業所では、ヘンケルの売上高と従業員はどちらも倍増。それぞれ 2 百万マルク、224 人を超えました。
1907
6 月、世界初の自己活性洗剤である Persilが誕生しました。Persil は洗濯に穏やかな改革を起こしました。家庭の主婦たちはごしごしこすったり漂白したりせずに、1 度煮沸するだけで、清潔で輝くように白い洗濯物を手にできるようになりました。
1907 年秋、Thompson も Ozonit の名称でオゾン入り粉せっけんを発売。その後名前を Ozonil と変えましたが、Persil の好調な売れ行きを止めることはできませんでした。
米ニュージャージー州、ニューアークで National Red Oil & Soap Company、後の Nopco Chemicals 創立。最初に製造されたのは、食物染料用のスルホン酸化植物油でした。1987年ヘンケルは、Nopcoを買収しました。
1908
Persilは、あらゆる期待をはるかに超える成功をおさめ、年間製造量は 4,700 トンに及びました。7 月に稼動を始めた新しいせっけん工場では、最初のダブルパケット充填機が採用され、クレート釘打ち機がアメリカから輸入されました。わずか 1 年間で、社員数は 50 % 増加し、 485 人になりました。
同時に、Persil の輸出を開始。Albert Blum & Co がスイスの総代理店になりました。
シュワルツコフ製品ラインに 3 種類の Schaumpon (卵、タール、カモミール)と歯磨き粉が加わりました。
1909
ヘンケルは脂肪酸工場を建設、これが後の「オイルプラント」となりました。12 月に Twitchell プロセスを採用した、独自の油脂加水分解プラントが始動しました。
ヘンケルはフランスとイギリスで、 Persil 製造のライセンス契約を交わしました。フランスでは Société d'Electro Chimie と、イギリスでは Joseph Crosfields & Sons Ltd. のせっけん工場と契約。イギリスとフランスの Persil 商標を持つ会社は、ユニリーバに買収されました。
1910
4 月中旬、2,450 冊を所蔵するヘンケル初の事業所内図書館を設立。この図書館は特許明細書も収集しました。新聞切り抜きサービスが開設され、切り抜き記事のアーカイブがスタートしました。この施設は、後のビジネスレビュー文書および企業アーカイブの基礎となりました。
ヘンケルは、廃棄物とみなしていたグリセリンが収益性のある事業部門になることに気づき、蒸発装置を備えたグリセリン工場を建設。第一次世界大戦の勃発までには、ヘンケルは欧州最大のグリセリンメーカーになりました。
1911
4 月 15 日、プラント消防局を設立。当初 はボランティア消防士25 名の体制でした。最初の職業消防士を 1913 年に雇用し、その後 1914 年にはさらに 3 名の常勤消防士を雇用しました。
ヘンケル初のオイル抽出プラントが始動。オイル抽出プロセスの副産物は、動物飼料として、「Henkel’s Palmkernschrot(ヘンケルのパーム核ペレット)」と 「Henkel’s Sojaschrot(ヘンケルの大豆ペレット)」の名称で販売されました。また、ヘンケルは新しい段ボール箱工場とテストランドリーを建設。Persil と名付けた最初の機関車が 2.5 km を走り、13 個の貨車と 8 個のタンク貨車をひきました。
1912
デュッセルドルフ - ホルトハウゼンの総生産量は 49,890 トンに上昇。Persil の生産量は、市場投入からわずか 5 年で 19,750 トンに達し、これは全社の 40 % を占めました。
社員数は前年から 89 名増えて 1,024 人になりました。このうち、約半数は女性でした。
救護所がプラント内に設置され、常勤の看護婦を雇用。前年、ヘンケルはスポーツとゲームのための場所を新たに設定し、社員が休憩時間に運動することを奨励しました。女性社員は、昼の休憩時間にプラントの家事学校に出席することができました。
1913
1 月 29 日、ヘンケルは最初の子会社 Henkel & Cie AG をスイスのバーゼル – プラットに設立。1923 年まで、同社はヘンケルのドイツ国外で唯一のプラントを持つ子会社でした。
デュッセルドルフでは、化学者 Otto Kossack が家庭用の接着剤とさまざまなケア製品の製造を開始。1925 年、Kossack-Chemie は Hooco-AG を買い取り、ドイツで有名な床磨き剤ブランド Dompfaff を継承しました。Kossack は 1967 年にヘンケルの一部になりました。
米カリフォルニア州のオークランドで、クロロックス社が設立されました。現在、クロロックスはアメリカでの消費者製品の最大メーカーの 1 つです。1974 年、ヘンケルはクロロックスの株式を取得し、アメリカ、カナダ、プエルトリコの家庭用および大量消費用にヘンケルが開発した特定製品の製造・販売を実施しました。
26 歳のドイツ人、Gerhard Collardin がスペイン、バルセロナで FAGESCO (Fabricacion General Española de Colores, Gerardo Collardin SA)を設立。1925 年、彼は独ヘッセン州、ヘルボルン近郊のシェーンバッハに Farbwerke Ardinit GmbH を設立しました。1956 年、ヘンケルは Ardinit GmbH の全株を取得しました。
1914
James H. Gravell がアメリカ、フィラデルフィアで American Chemical Paint Company を設立。同社の最初の製品は、自動車産業用のさび止め剤、Deoxidine でした。その後Amchem Products Inc に社名を変更し、米ペンシルバニア州、アンブラーに移転した同社を、ヘンケルは1980年、ユニオンカーバイドから買収しました。
各種ヘンケル製品の成功により、ホルトハウゼンには新しい漂白ソーダ工場の建設が必要になりました。蒸気ボイラー 3 台を備えた新しいボイラー室が始動。エネルギー消費も、製品の売上と同様、急上昇しました。
8 月 1 日の第一次世界大戦勃発後、原材料不足に陥り、のりのサプライヤーにも不足の危機が訪れました。研究所では、水ガラスから接着剤の代替品を作る初期テストを開始しました。
ハノーバー – リンデンのミッテルラント運河の支線用水路が完成。桟橋が Sichel プラントの脇に建設されました。また、このプラントには独自の鉄道も建設されました。
1915
Clark W. Parker がアメリカで Parker Rust-Proof 社を設立。彼は、リン酸塩ベースのさび止めプロセスのライセンスを販売しました。表面処理と接着剤の専門会社である Parker Chemicals (1987) と Amchem Products Inc (1980) を買収し、ヘンケルはアメリカでの市場ポジションを築きました。
Fritz Henkel sen. は 自らの商業活動開始50周年を記念して、「Unterstützungsfonds für Arbeiter und Angestellte」(作業員と職員を支援する基金)を設立しました。1918 年の 70 歳の誕生日には、「Alters- und Hinterbliebenen-Versorgung der Angestellten」(老齢者および遺族の年金制度)を設立しました。
1916
ヘンケルは、ホルトハウゼンに新しい水ガラス工場を建設。この工場は現在も稼動しています。原材料の不足と油脂の国家管理により、9 月 1 日以降に提供できたのは、酵素を含みせっけんを加えない戦時品質の Persil だけでした。
デッサウ近郊の Rodleben に Tetralin GmbH が設立されました。潜水艦の燃料製造のためのプラントです。ヘンケルは、1934 年に同社の後継 Deutsche Hydrierwerke AG (略称 DEHYDAG)の株式の 100 % を取得しました。
1917
ヘンケルは Matthes & Weber の全株を取得。これに伴い、デュイスブルグのソーダ工場は、ヘンケルにとってドイツ初の子会社になりました。1994 年、ヘンケルは同社をアメリカ、ニューヨークの D. George Harris & Associates に売却しました。
良質の原材料が不足したため、Schwarzkopf GmbH はベルリン工場での製造を停止せざるを得ませんでした。
1918
ヘンケルは Persil の製造を完全に停止し、代わりに酵素を含みせっけんを加えない戦時洗剤を製造。洗濯すすぎ剤Silが販売されました。
最初の合成界面活性剤、テトラリンスルホン酸塩が Rodleben で製造されました。
1919
Henkel OHG の所有者は、ヘンケル創業者 Fritz Henkel、息子二人、娘一人でしたが、職務と企業経営の負担の一部を軽減する目的で、8 名から成る強力な経営委員会を任命。独自の責任領域を備えた、近代的な管理構造が生まれました。
ホルトハウゼンのヘンケルプラントの社員数は 2,138 人になりました。戦時中、604 名の社員が招集され、その内の 71 名が戦死しました。
1920
油脂の国家管理が解除され、Persil は通常の平和時の品質で製造を再開。赤の楕円の中に Henkel の文字が入った社章が、初めてパッケージに登場しました。洗剤製造プラントの噴霧塔で、近代的な噴霧乾燥プロセスが始動しました。最初の労使協議会が選出されました。
6 月 1 日、ヘンケルは、研磨剤の組織的な浸透を図るためにAtaを発売し、家庭用クリーナー部門を設立。1924 年から、Ata は厚紙のボトル形状容器で供給されましたが、これは数十年にわたってユニークな製品特徴となりました。。
1771年、Georg Wilhelm Melsbachがクレイフェルドに設立したせっけん工場が、他の 11 社と合併して Dreiring-Werke KG になりました。1924 年、ヘンケルはこの会社の株式を取得し、1953 年には残りすべての株を取得しました。
1921
「Henkel’s Bleaching Soda (ヘンケルの漂白ソーダ」に Henko というブランド名が与えられました。ヘンケルの洗剤 3 製品は昔ながらの洗濯方法におけるすべてのご要望にお応えしました。つけ置きにはHenko、主洗浄には Persil、すすぎにSil が使用されました。
8月 4 日にマクデブルクとベルリンの間にあるゲントヒンで、Henkel GmbH のゲントヒンプラント工場の礎石が定められました。1920 年代のドイツで最も近代的な洗剤製造施設がここに誕生しました。プラントは 1945 年に接収され、1949 年にドイツ民主共和国の国有会社(VEB)になりました。1990 年、ヘンケルはプラントを買い戻しました。
William Pohl がボンで Kepec Chemische Fabrik GmbH を設立。同社は、特に皮革加工の、革新的製品を導入しました。同社と米ウィスコンシン州の関連会社が 1973 年にヘンケルによって買い取られた後、ボン近郊のジークブルクにある Kepec が有機特殊化学専門企業として評判を獲得しました。
1922
Persil の広告で最も有名なキャラクター Weisse Dame (ホワイトレディー)が誕生しました。このキャラクターは 1960 年代までポスター、エナメル加工を施した看板や街頭時計に使用されました。近年 ホワイトレディーは、復刻版も登場しました。
年頭、ヘンケルは自社で使用する接着剤(紙、板、包装用接着剤)の製造を開始。
L. L. Grombach と Max Einstein が米ニュージャージー州、ホーボーケンに Standard Chemical Products Inc を設立。工場は当初、織物産業用の化学薬品を製造していました。1960 年、ヘンケルは接着剤を製造するようになっていた同社を買い取りました。
ドイツのニュールンベルクで、ヘンケルは Holzwerke Zapfendorf AG 設立に参加しました。1924 年には、全べての株式を取得。この買取と、数年にわたって行った製紙工場数社の買収は、できる限りサプライヤーに依存しない、という企業原則に従ったものでした。
1923
6 月 26 日、接着剤を初めて隣接工場に販売。ヘンケルは包装産業に加え、当時 Siche が市場リーダーであった内装と壁紙市場の獲得という野心的な決断を下しました。
Henkel & Co ASをコペンハーゲンに設立。同社は第一次世界大戦以来、初めてドイツ国外で設立した子会社です。
M. J. Osborn が米ミネソタ州、セントポールに Economics Laboratory (Ecolab) 社を設立。1989 年、ヘンケルは Ecolab Inc の小数株を取得しました。
フランス軍がドイツのルール地方を占領。これがストライキを誘発し、生産性は低下、物価が高騰しました。
1924
デュッセルドルフで、ヘンケルは大量買付けのバイヤー向けに Großverbrauch (GV) 部門を新設。この部門は、洗剤、家庭用クリーナー、食器用洗剤、殺菌剤を、クリーニング店や外食産業、病院など大量に使用する施設等に販売しました。
Theodor Ross がハイデルベルクに移転し、自動車用製品の開発と製造を開始。1926 年、エンジンハウジングセメント名の Teroson MK 26 が、初めて商標登録されました。
ユニークな厚紙成型ボトル入りのAta を発売。
1925
デュッセルドルフ – ホルトハウゼンで、ヘンケルは自社の需要に対応した技術と工芸の実習制度を開始しました。
現在のスタッフ研修では、技術的な知識を備え、チームの中で役割を果たし、柔軟性があり、独自に行動し問題が解決できることを理想としています。
Henkel Kemiskt-Tekniskt Aktiebolag がストックホルムで設立されました。
1926
ヘンケルは、「Grosse Ausstellung Düsseldorf 1926 für Gesundheitspflege, soziale Fürsorge und Leibesübungen (Gesolei)」(1926 年デュッセルドルフ、健康管理、社会福祉、運動展示会)に参加。展示会は約5ヶ月間で750 万人を集客しました。ヘンケルは、参加した唯一の産業会社として「Grosse Reichsmedaille」(ドイツ帝国グランドメダル)を受賞しました。翌1927 年、ヘンケルのパビリオンは 社内の管理部門区画に統合されました。
1927
1927 年 から1932 年の間にヘンケルは、トーキー映画、ラジオ、空中文字、初のネオンサイン、夜間の空中投影など、数々の新しい広告手法を採用しました。
ヘンケルとLeverグループは、世界のPersil販売地域を2つに分割しました。Leverはイギリスとフランス、および両国の植民地で販売し、ヘンケルには残りの全地域が与えられました。
1928
「Henkel-Kleister-trocken (染料ペースト)」が発売され、次いで 1929 年には冷水に溶ける内装用のり Mala が発売されました。この2つは、ヘンケル接着剤の競争力を語るに欠かせない重要な製品でした。欧州の近隣諸国を中心に、接着剤の輸出を開始。1929 年以降、製品はオーストラリアと南米にも輸出されました。
Böhme では、研究者が初めて脂肪アルコールのスルホン化に成功した後、強力な洗浄特性を持つ全く新しい出発原料を発見しました。DEHYDAG もブーヴォー・ブラン方法による脂肪アルコールの合成と、脂肪アルコールスルホン酸塩の合成を開始。(アルコール中の金属ナトリウムを使用するエステルの還元は、1903 年に Bouveault と Blanc によって発見されました。)
1929
アメリカ訪問でアイデアを得た Hugo Henkel 博士は、 1928 年にリン酸塩を使用する金属表面の洗浄テストを開始。工業用およびプロ用のクリーニング剤は1929年春には製造を始め、Pedrei (P3)のブランド名で上市されました。表面処理技術が、ヘンケル事業の重要な領域のひとつになりました。
ヘンケルは、同じ化学手法に基づく家庭用クリーナー Imi を発売しました。
Kiesin (Kieselin, Kisolit) が開発されました。この鉱物塗料結合剤および難燃剤は、ケイ酸カリウムをベースとし、木材に浸透させる防火剤や、しっくいに耐久性コーティングを施す際に使用されました。防火およびカムフラージュ塗装に大変重要な役割を果たしたのです。
1930
1 月 4 日、Fritz Henkel jun. 博士 h.c. が 55 歳で死去。同年3 月 1 日にはヘンケル創立者、Kommerzienrat (通商参事官) Fritz Henkel sen. が 81 歳で亡くなり、Hugo Henkel 博士がヘンケルの単独経営者になりました。
北欧で、ヘンケルはオスロに Henkel AS を、ヘルシンキに OY Persil AB (1962 に Suomen Henkel に社名変更)を設立。デュッセルドルフの Gebrüder Vöh 、コロンの Labor-fac GmbH の両社を取得しました。両社は床材や家具の手入れ製品のメーカーでした。
1931
デュッセルドルフ – ホルトハウゼンで、高圧水素化によってココナツ脂肪アルコールを製造する製油所が稼動を開始。脂肪アルコールの製造は稼動 1 年目で 600 トンに達しました。
ドイツで外国為替管理が導入されたため、ヘンケルはドイツ国外で欧州に所有する株式資本の持ち株会社として、UMA AGをスイス、クールに 設立しました。
1932
ケムニッツの Böhme が、せっけんを使用していない世界初の完全な合成洗剤、Fewa を開発。中性で繊維に優しく、ウールやせっけんに敏感なデリケートな布地に負荷をかけないFewaは、1933 年に市場に展開されました。
オランダのユトレヒト近郊ユトファースに、ヘンケルは Nederlandsche Persil Mij NV を設立。10 月 24 日、それまでは輸入していた洗剤と家庭用クリーナーの製造を開始しました。
シュワルツコフが多数の新製品を発売。ヘアサロン用の初のヘアコンディショナー、初めてのせっけんを使用しない家庭用超低刺激シャンプーSchaumpon、世界初のアルカリ-フリーのシャンプー Onalkaliが発売されました。これは、DEHYDAG のテクサポン抽出により実現しました。
1933
Hugo Henkel 博士の長男、Jost Henkel 博士 (1909 - 1961) がヘンケルに入社。経済学を学んだ彼は、1942 年から第二次世界大戦を通してヘンケルを経営し、洗剤会社から大規模な化学メーカーへ拡大するための基盤を作りました。
フランスの実業家 M. Nomani がパリにSociété d'Innovations Chimiques (Sinnova) を設立。同社は 1938 年にモーで脂肪アルコールの製造を開始しました。Sinnova は 1974 年にヘンケルの一員になりました。
イタリアでは、コモ近郊のロマッツォで Società Italiana Persil SpA が設立されました。1965 年、同社は Henkel Italiana SpA, Milan に社名を変更。1985 年、 Henkel Italiana SpA はイタリアの Società Europea Produzione Adhesivi SpA (SEPA) を買収しました。
ドイツの国家社会主義者による権力「掌握」の影響は、ヘンケルにも及びました。3 月の労使協議会選挙が干渉を受け、5 月には、「協力体制」をはかって労使協議会が一新されました。
1934
ベルギー、ヘーレントに新しいプラントを建設。1935 年 3 月、最初の製品が出荷されました。
デュッセルドルフでは、接着剤の原材料の代替物デキストリンのヘンケル初の工場が始動しました。
シュワルツコフが、初めてのパーマ混合液 Alkacid と、ヘアトニック Seborin を発売。これらは後に有名なブランドになりました。
創業者 Fritz Henkel の孫 Werner Lüpsが1933年に創立したハンブルグの chemisch-pharmazeutischen Handelsgesellschaft mbH (Chemphar)との間で締結した契約により、Champharが欧州外でのヘンケル製品の販売を担当することが規定されました。ヘンケルは1939年、Chempharを吸収合併しました。
1935
油脂関連の原材料不足の問題を解決するため、ヘンケルはヴェザーミュンデに「Erste Deutsche Walfang Gesellschaft mbH」(ドイツ初の捕鯨会社)を設立。捕鯨漁は 3 回のみ行われました。
セルロースを接着剤の原材料として開発。新しい特許を取得した原材料は Carboxymethylcellulose (略称 CMC)と名付けられました。
1936
セルロースから派生した Carboxymethylcellulose (CMC)が、冷水に溶ける粉末のり、Henkel-Zellkleister Z 5 として市場に登場。1937 年、2 つめのセルロース製品、Henkel Zelluloseleim (セルロースのり)が発売されました。これらの製品は、ヘンケルの接着剤開発にとって重要な出来事でした。同時に、政府により産業目的での穀物とジャガイモ澱粉を使用することが禁止されました。そのため、1937 年、Sichel もセルロースの使用を開始しました。
ウィッテン/ルールで、ヘンケルの関与により Deutsche Fettsäure-Werke GmbH が設立されました。マンハイムでは、Thompson が靴クリーム製造会社 Pilo Werk を取得。l1938 年に Thompson のマンハイム支社になりました。
1937
デュッセルドルフ – ホルトハウゼンでは、ヘンケルが
脂肪酸の分留のための工場と、初の微生物研究所を建設。これ以降、水ガラス工場の炉は混合貯蔵庫から自動的に補給されるようになりました。
ヘンケルは、殺菌活性物質として使用される初の第 4 級アンモニウム化合物(QAC)の特許を請願。QAC は 5 年にわたる研究の成果でした。1939 年、ヘンケル初のフェノール誘導体である殺菌活性物質の特許が出願されました。
1937 年の時点でヘンケルは、オーストリア、ベルギー、チェコスロバキア、デンマーク、ドイツ、ハンガリー、イタリア、オランダ、ノルウェー、ポーランド、スウェーデン、スイスの欧州 12 カ国に製造会社を所有していましたが、戦後、これらの会社はすべて没収されたり、行政の下に置かれました。Persil Italiana の株式は、ベルギー企業Solvayに売却されました。
1938
国家社会主義からの圧力により、Hugo Henkel 博士は新しく設立された諮問委員会と監督委員会のメンバーになりました。ヘンケル一族の第三世代が会社の経営を引き継ぎましたWerner Lüps はいわゆる「Betriebsführer」(最高経営責任者 Managing Director)で、Jost Henkel 博士と Carl August Bagel が本部長を務めました。1939 年、Willy Manchot 博士が健康を害した Bagel に代わり、Henkel & Cie GmbH の本部長と Henkel & Cie AG の経営委員会のメンバーを引き継ぎました。
製本に初の合成樹脂のりが使われました。1935 年、ヘンケルは「樹脂濃縮製品の製造方法」でパイオニア特許を取得しました。
1939
9 月 1 日の第二次世界大戦勃発直後、ドイツ政府から標準の粉末洗剤だけを製造するよう命じられ、Persil と Fewa は市場から撤収されました。 200 を超えるヘンケル製品は大幅に数を減らし、再構成しなければなりませんでした。2つのセルロース誘導体が充てん剤として、乳化剤がコスメティックおよび製薬産業用に発売されました。
Pressal で、ヘンケルは木材加工市場、特に家具産業の足掛かりを得ることに成功。Pressal は特許を取得したメラミンをベースとしたまったく新しいタイプの木工用接着剤で、特に合板の接着に適していました。
1940
ヘンケルは、ベルリンに Papier & Pappe AG を設立。同社はヘンケルのドイツ国内の製紙工場を統合しましたが、対象になったのはユーリヒ近郊の Inden、マクデブルク近郊の Westerhüsen(両社とも 1922 年に買収)、Monheim(1925 年創立)、ラインラントの Süchteln/Viersen、シュナイデミュール近郊の Tarnowker Mühle、バイエルンの Oberau でした。
洗剤生産に使用する Relatin フレークにより、セルロースの市場が拡大。1942 年、ヘンケルはペースト状のセルロース製品 Rinosil を生産しました。
1941
Rodleben の DEHYDAG が、ヘキサリンからカプロラクタムを製造。このカプロラクタムはポリアミド繊維 Perlon® (Warenzeichenverband の標章)の製造に使用されました。
1884 年にヘンケル創業者 Fritz Henkel の末っ子で一人娘として誕生し、Werner Lüps の母、Reinhold Woeste の義母となった Emmy Lüps が、 9 月 19 日に死去。
この年の終わりには、召集された多数の社員の代わりとして、343 人の外国民間人、194 人の捕虜がデュッセルドルフ – ホルトハウゼンで働いていました。
1942
この年の終わりには、デュッセルドルフ – ホルトハウゼンで労働していた外国民間人は435 人、囚人は 127 人でした。
Werner Lüps が交通事故で死去。経営委員会は Jost Henkel 博士を後継者として「Betriebsführer」(最高経営責任者 Managing Director)に任命しました。
製品の皮膚適合性を組織的に調査するヘンケルの研究が始まりました。業務設備用のお客様向けに、色物およびデリケートな繊維のための初の合成洗剤、Dixit が発売されました。
ヘンケルのオランダにおける長年の取引相手 E. Ostermann & Co's Handel Mij NV が、ユトファースの Nederlandsche Persil Mij NV に合併されました。
1943
デュッセルドルフの空襲で、ヘンケルの事業所にも被害がありました。6 月はデュッセルドルフ – ホルトハウゼンの Relatin 製品ラインなどが、11 月 3 日には、Thompson 工場の全部門が空襲による火災に遭遇しています。10回の攻撃を受け、1944年にはデュッセルドルフ Thompson の 80 % が破壊されました。
ヘンケルは、フサリウム(菌類)種から油脂を得るバイオ技術を導入。この方法は 1938 年にすでに特許を取得していました。また、デュッセルドルフの 水ガラス製造工場から生じる排気ガスを利用して硫酸工場を稼動しました。
この年の終わり、デュッセルドルフ – ホルトハウゼンで労働していた外国民間人は 574 人、捕虜は 108 人でした。
1944
ベルリンのシュワルツコフと Chemische Werke Grünau 、デュイスブルグの Matthes & Weberでそれぞれオフィスと工場が爆撃され、Chemische Werke Grünau の60%が破壊されました。10 月に 3 度の攻撃を受け、製造は停止せざるを得ませんでした。デュッセルドルフ – ホルトハウゼンのヘンケルの被害は、比較的軽度で済みました。
接着剤工場の製造は、シュレジエンの Glogau と、アルザス、ミュルーズの Riva SA に下請けされました。戦後、Riva はヘンケルのノウハウを利用して接着剤と壁紙用のりの製造を続け、フランスにおける接着剤ブランド名の維持に貢献しました。ヘンケルは 1953 年、 Riva を買収しました。
年末、353 人の外国民間人、113 人の捕虜がデュッセルドルフ – ホルトハウゼンで労働していました。
1945
4 月 16 日、アメリカ軍がヘンケルのデュッセルドルフ事業所を占領し、3 分の 1を接収。6 月 5 日には、デュッセルドルフのイギリス軍事指令部が引き継ぎました。7 月 20 日以降、イギリス軍政府は段階的に、ヘンケルによる接着剤、P3、水ガラスの製造、Thompson によるせっけん、洗剤、靴クリームの製造を許可しました。1946 年 2 月、デュイスブルグの Matthes & Weber に、使用可能な原材料をソーダに処理する許可が与えられました。
1945 年 9 月 20 日、経営委員会および監督委員会のメンバーだったヘンケル一族の 5名とその他の7名が収容されました。
ハンブルグ(イギリス占領地域)では、シュワルツコフが急ごしらえの製品製造を開始。1946 年には、バイエルン、フランコニアのヴァッサートリューディンゲン(アメリカ地域)で製造体制の再建が始まりましたが、新工場の基礎が敷かれたのは 1953 年、通常生産の再開ができたのは1955 年のことでした。
1946
ヘンケルはデュッセルドルフ – ホルトハウゼンの Gesolei ホールを Düsseldorf City Theater に提供(1948 年まで)。同ホールは1949 年 2 月までの昼の間、新たに選出されたノルトライン・ウェストファーレンの議会に使用されていました。
7 月、デュッセルドルフに Polycolor chemisch-pharmazeutische Gesellschaft mbH (1948 年に TheraChemie, Ohligs に改名)が創立されました。1948 年、同社は Polycolor 液体ヘアカラーを発売。TheraChemie は 1950 年にヘンケルに買収されました。
フランス、ブッセンに Société des Produits Chimiques duSidobre SA が設立されました。1972 年、Société d'Innovations Chimiques と Sidobre が合併して、Produits Chimiques du Sidobre-Sinnova SA (Sid-Sin) になりました。
Copydex がイギリスで設立されました。当初、同社はラテックス接着剤を製造し、後に建設化学品を製造しました。Copydex は 1986 年にヘンケルの一員となりました。
1947
11 月 21 日、社会復帰したヘンケル一族のメンバーが会社に復帰し、以前のすべての権利が再び与えられました。会社の経営委員会と監督委員会が再編され、12 月 10 日付けで発効しました。
西ドイツで解体すべき 918 工場のリストが発表され、ヘンケルもこのリストに含まれていました。デュッセルドルフのオイル、グリセリン、洗剤工場の一部は即時に解体されました。アメリカにまで達する大規模な PR キャンペーンにより、ヘンケルの 70 %におよぶ解体計画の実施は回避されました。
シュワルツコフは、西ドイツ初のコールドパーマ液、Onaltherma を発売。
Darold Thiem がアメリカで会社を創立。同社は 1960 年代初頭に自動車産業用のシール剤を製造する部門を拡張しました。1996 年、ヘンケルは米ウィスコンシン州、ミルウォーキー近郊オーククリークの Thiem自動車部門を買収しました。
1948
Hugo Henkel 博士の次男で、化学者の Konrad Henkel 博士 (1915 - 1999) がヘンケルに入社。1960 年代以降、彼は会社をドイツ市場中心の同族企業から、国際的な企業グループに転換しました。
デュッセルドルフ – ホルトハウゼンのヘンケルの「オイル区画」が、Böhme-Fettchemie と Deutsche Hydrierwerke (DEHYDAG) の新社屋建設で拡張されました。この両社は 1945 年ロシアに没収されて国営企業となり、1945 年(Böhme) と 1948 年(DEHYDAG)、デュッセルドルフに本社を移しました。
1949
シュワルツコフが Schauma シャンプーを発売は、最も成功したドイツのシャンプーの始まりでした。
グリューナウの化学者が、高品質で生分解性の工業用洗剤、分散剤である Lamepon A を開発しました。
デリケートな繊維用洗剤 Perwoll と洗剤 Lasil が発売されました。どちらも、ヘンケル初の合成ベースの洗剤です。TheraChemie が、液体ヘアブリーチとヘアカラーを発売しました。
1950
Persil は、以前の実績ある品質にさらに蛍光増白剤を加え、市場に復帰を果たしました。
ヘンケルの Adhesin は、ポリ酢酸ベースの合成樹脂分散という、新世代接着剤の外観を明らかにしました。合成樹脂ベースの初のホットメルト接着剤と、新種のオイルフリー結合剤 Oleton も発売されました。Böhme が殺虫剤 Paral を発売しました。
ヘンケルは、スペイン バルセロナの Productos Gota de Ambar SA の株式を取得。同社は 1963 年に Henkel Ibérica SA になり、1964 年には、バルセロナ近郊のMontornés del Vallés で主要な製造施設の稼動を開始しました。2000 年 2 月、特殊化学会社 ヒスパノ・キミカ社が、コグニスによって買収されました。
1951
家庭用食器洗剤の、粉末 Pril が Böhme から発売されました。
TheraChemie が、初めてクリーム状のヘアカラーとヘアブリーチを発売しました。
ヘンケルは初の海外子会社、Southern Chemical Manufacturers を南アフリカ、ダーバンに設立。1964 年には Henkel South Africa (Pty) Ltd に社名変更し、現在はヨハネスブルクに移転しています。ヘンケルは現在、南アフリカに 6 社、中央アフリカ(ヘンケルケニア、ナイロビ、タンザニアのダルエスサラームにあるHenkel Chemicals East Africa)、エジプト、モロッコ、チュニジア、アルジェリアにも拠点を設けています。
1952
会社のトップであったHugo Henkel 博士が 12 月 18 日に急死。彼は、47 年にわたってヘンケルに多大な貢献を果たしました。1953 年 1 月 1 日、Reinhold Woeste が監督委員会の会長としてその任を継承しました。
スイス Blattmann とのライセンス契約により、ヘンケルは Noredux プロセスを用いて高純度で溶解性の洗濯用のりとデキストリンを製造できるようになりました。デュッセルドルフでメチルセルロース工場が始動しました。ヘンケルはスイスの子会社を買い戻しました。
ヘンケルは、業務設備用の初のグリース溶剤のり、 Saptenol を発売しました。
1953
2 月にMetylan工場が製造を開始。ドイツでは、Metylanは壁紙用接着剤として最も知られた包括ブランドになりました。ドイツ国外でも、ヘンケルは現地で親しまれているブランド名で製品を販売しました。
米コネチカット州ハートフォードのトリニティ大学の化学教授、ドイツ系の Vernon K. Krieble が、革命的な嫌気性接着剤を発見。1956 年、彼は会社を設立し、同社は後に Loctite Corporation となりました。
ドイツおよびオーストリアの工場では、それまでのKrause 法を Welter 法による洗剤噴霧乾燥法に変更。
メラミン樹脂フィルムの製造工場がデュッセルドルフの接着剤施設内に建設され、ゴム系接着剤とアルギン酸塩の製造が始まりました。
これが、ヘンケルの環境研究の始まりです。
1954
クレーフェルトにある子会社 Dreiring は、高品質の植物油と動物性脂肪から作る新しいタイプの化粧せっけん、Fa ソープを発売。1970 年以降、一連の Fa デオドラント、シャワージェル、バブルバス製品が加わり、Fa はトイレタリー部門で最も知られる包括ブランドの1つになりました。
新しいタイプのゴム系アンダーシール剤によって、テロソンがドイツの自動車ドライバーに良く知られるブランド名となりました。
Böhme Fettchemie が神戸の West European Trading Company に、日本における製品の独占販売権を授与。1957 年、West European Trading Company は Nippon Henkel Chemical になりました。1969 年、業務提携に基づき、プリットスティックのりが大阪のクヨ株式会社から発売されました。1974 年、大阪でヘンケル白水株式会社が設立されました。1999 年、ヘンケルは合弁事業のセメダインヘンケル株式会社を東京に設立。日本の事業者産業向け接着剤およびシーリング剤で、協力体制が始まりました。同じく1999 年、ヘンケルは、洗剤、家庭用クリーナー、コスメティック、トイレタリーの部門で、ライオン株式会社との協力体制を開始しました。
1955
接着剤市場で、イノベーションが起こりました。パテックス密着用接着剤は、プロ用および家庭用の幅広い用途に使用することができます。パテックスは強力接着剤の代名詞になり、包括ブランドになりました。ヘンケルは接着剤メーカーで初めて、天然樹脂ベースのホットメルトを提供しました。
エポキシ樹脂ベースのヘンケル接着剤 Metallon と Stabilit は、金属やガラスなどの硬い表面の間で非常に安定した接着を可能にしました。
ザールラント州にあったヘンケルの会社が、パリ本社と製造をシャロンシュルマルヌに持つUnichima SA と合併し、製造会社を創立しました。
シュワルツコフから、初のブランド名を冠したヘアスプレー、Taft 「das flüssige Haarnetz(リキッドヘアネット)」が発売され、高く後ろになでつける流行のヘアスタイルを可能にしました。
サンパウロでは、Henkel do Brasil SA が創立され、DEHYDAG の製造を開始。1966 年には、接着剤工場が始動しました。1995 年、ヘンケルは、オフィスおよび文房具サプライヤー部門の市場リーダーである Tenazブランドで販売される接着剤製品ラインを取得しました。
1956
ドイツのテレビに初めての広告を放映。最初のテレビコマーシャルは Persil の広告でした。
ヘンケルはヘッセン州、シェーンバッハの Gerhard Collardin GmbH の全株を買い取りました。当初工場は P3 製品を製造していました。1998 年、同社は Henkel Surface Technologies の一員となりました。
デュッセルドルフのヘンケルプラントでは、ステアリン結晶とオレイン酸を分離するための新しい脂肪酸分留ラインと「ローリングアップ」プラントの建設を開始しました。
1957
ヘンケルは、ドラム型洗濯機用に泡が停滞する初の特殊洗剤、Dixan を発売。
TheraChemie から Poly ヘアケア製品ラインが登場。
Lameprint 印刷増粘剤の開発により、グリューナウは炭水化物化学分野の足場を築きました。前年、消防用の初の ABCドライパウダー、Metasal が発売されました。
デュッセルドルフ – ホルトハウゼンのヘンケルでは、排水を浄化するための最初の中央浄水プラントが稼動しました。
ゼンのヘンケルでは、排水を浄化するための最初の中央浄水プラントが稼動しました。
1958
ヘンケルの研究部門は、表流水の洗浄活性物質に関する体系的な研究に注力。1959 年には、低泡界面活性剤の開発を開始しました。川や湖に多量の泡が発生したことから、1961 年にはGerman Detergents Actが制定され、1964年以降は、生分解性の洗剤だけが使用を許可されることとなりましたが、ヘンケルは十分な準備の体制を整えていました。
テロソンがシリコーンシール剤を発売。その後数年間で、テロソンは自動車、住宅建設、窓の施工部門向けの接着剤およびシーリング剤のエキスパートになりました。
1959
1 月 2 日、Persil 59 が店頭に並びました。これは、ヘンケル初の衣料用合成洗剤でした。この洗剤は水の硬度にほとんど影響されず、当時のすべての標準的な洗濯方法に適していました。
Böhme が液体食器洗剤、Pril を発売しました。
木工用白色接着剤、Ponalがその栄光の歴史をスタート。Ponalは、家具産業と建具業界向けの特注製品レンジの包括ブランドになりました。ヘンケルは、重量のある壁紙用の接着剤、Ovalit を発売しました。Dreiring Werke がせっけん、Ladon と、デリケート繊維用の仕上げ剤 Perla を発売しました。Fa、Ladon、Perla の製品は、 1961 年以降ヘンケルから販売されました。
Henkel Mexicana SA, Naucalpan de Juárez, Mexico が設立され、ヘンケルのラテンアメリカ事業が拡張されました。1964 年、ヘンケルはメキシコ、トラルネパントラの Henkel Onyxmex SA という名前の合弁会社に出資。1965 年、ヘンケルはこの合弁会社を完全に買い取り、1971 年には Henkel Mexicana SA と社名変更しました。
1960
Standard Chemical Products Inc (1971 年以降は Henkel Inc) を取得し、ヘンケルはアメリカの化学製品市場に参入しました。
アメリカのLord Corporationのライセンスの下、ヘンケルは、ゴムと金属の結合剤(Chemosil ブランド)市場に参入しました。この製品は、特に自動車技術および架橋工事部門で、防振部品の製造に使用され、今日ではヘンケルの得意とする専門領域の1つにあげられます。
ヘンケルは商業ランドリー向けに、 Silex-Ozonex 二重方法を導入。シュワルツコフが、ヘアドレッサーサロン用に Igora Royal ヘアカラーを発売しました。Sichel が、工業製造用のシアノアクリレートベースの反応型接着剤を開発しました。その後この製品は、消費者には Pattex-Sekundenkleber (瞬間接着剤)として親しまれるようになりました。
デュッセルドルフ - ホルトハウゼンでは、ヘンケル初のパイロットプラントが稼動。同プラントは小規模の製造プロセスのテストと開発に使用されました。
1961
7 月 7 日、 Jost Henkel 博士が 52 歳で急逝。7 月 1 日、弟の Konrad Henkel 博士 (写真) が後継の最高経営責任者 (Managing Director) に就任しました。
万能クリーナーDor、病院の高温洗濯消毒用洗剤 Dermasil などの新製品が発売されました。
シュワルツコフが Golf Kosmetik を設立。Poly が初の家庭用パーマフォーム剤を発売しました。Thompson が製品レンジを窓用およびトイレ用クリーニング製品に拡張しました。
1962
ヘンケルは、自動食洗機用の Somat 、屋外塗装用の Miropan-Latex などの新製品を発売しました。
ヘンケルは、ドイツにおける接着剤主要競合メーカー、ハノーバーの Sichel-Werke AG を取得しました。
建築部門 (1914 年設立) と建築事務所 (同1906 年)を統合し、ヘンケル建設部門が設立されました。
1963
デュッセルドルフでは、油脂化学の事業が拡張され、欧州最大の脂肪アルコールプラントになりました。グリセリン製造に大きな技術変化があり、精製は、主に合成樹脂ベースのイオン交換体で行われるようになりました。
ヘンケルからはSaptil (頑固なシミの下洗い用のチューブ入り洗剤) 、テロソンからはポリウレタンのシーリング剤など、製品イノベーションの数々が出現しました。
ヘンケルがトルコ、イスタンブールに Türk Henkel Sanayi ve Ticaret Ltd を設立。1965 年、トルコ、イズミルの Turyag AS の株式を取得しました。1970 年、テヘランに Iran Henkel AGを設立されました。1996 年後半、ヘンケルはイスラエルとレバノンに合弁事業を設立して進出しました。
1964
ヘンケルは環境問題を重要と考え、デュッセルドルフに独立した環境部門を設立。両性界面活性剤と完全に生分解する界面活性剤に関する作業を優先しました。1966 年、リン酸塩の代替品発見を目的とした研究プロジェクトが始まりました。
ヘンケルは車両ボディーの金属結合接着剤の事業で、急激な進展を遂げました。Saxit タイル接着剤と PVC 送信パイプ用の接着システム Tangit が発売されました。Tangit は後に特殊製品の製品ラインに拡大し、プラスチック送信配管システムの接着分野で、世界市場のリーダーになりました。
1965
温度に依存した泡制御を行うことからドラム型洗濯機に適した新しい Persil 65 が発売され、市場で圧倒的な地位を獲得しました。
Sidol-Werke Siegel & Co がヘンケルの一員になりました。1966 年以降、Thompson と Siegel が協力関係を締結。1969 年に両社は合併し、Thompson-Siegel GmbH になりました。
ヘンケル創業者の曾孫、Fritz Henkel jun. 博士の孫にあたる 1936 年生まれの化学者、 Jürgen Manchot 博士がヘンケルに入社。
ホットメルト開発の結果、梱包、ラベル、製本用の EVA ホットメルトが生まれ、 Technomelt ブランドで発売されました。そのままで使用できる充てん剤は、Dufixのブランド名で、DIY ストアの壁紙用製品レンジに追加されました。
1966
ヘンケルは、あらゆる現代の白物繊維のための特殊洗剤 Dato、強力な増白剤を配合した衣料用洗剤の隣接ブランド Weisser Riese、産業用食器洗剤 Rivonit などにより、洗剤製品ラインを拡大しました。
ヘンケルは新しい市場に参入。Liofolブランドで、主に食品部門のフレキシブル包装フィルムやフォイルラミネーション用のポリウレタン接着剤を発売しました。環境問題への認識が高まると共に食品法の厳格化が進んだことから、新開発の Liofol 製品が生まれ、国際的な事業に成長しました。
1967
Dompfaff ブランドで有名な Kossack-Chemie GmbH がヘンケルに合併されました。
2つのフランス企業 Unichima と Riva が合併し、パリに Société Anonyme Henkel France を設立。同社は後に、ドイツを除き欧州最大の子会社になりました。
ヘンケルは全自動洗濯機用の低負荷洗剤 Fewamat と洗濯機の下洗い用洗剤 Henk-o-mat を発売しました。
デュッセルドルフ - ホルトハウゼンでは、研修用のラボとパイロットプラントを備えた研修センター、 Jost Henkel Training Center が開設されました。次いで1968 年には、ミーティングやカンファレンスセンターにも使用される Fritz Henkel House for Sales Consultancy が開設されました。
1968
VEB Waschmittelwerk Genthin (1990 年に買い戻し) が洗剤 Spee を開発。
隣接ブランド戦略の一部として、ヘンケルは Weisser Riese に加え、酵素配合の衣料用洗剤 Fakt を発売しました。
無溶剤のアッセンブリー用接着剤 Macroplast、家庭用の高速、高強度接着剤Stabilit-expressにより、接着剤の製品範囲が拡張されました。Thompson が、液体肥料 Flora で室内植物市場に参入しました。
1969
世界初のスティックのり、Prittがデビューしました。その後、Prittブランドには他の製品も数々導入され、オフィスおよび文房具サプライヤーとしてヘンケルが重要な地位を占めることが明らかになりました。同年には輸出も始まったPrittは、ヘンケルの最も広く知られたグローバルブランドとなりました。
柔軟仕上げ剤Vernelと、酵素ベースの生物活性の Persil 70 が登場しました。
ヘンケルは、コスメティック製品の販売とマーケティングを行う Henkel Khasana GmbH、床材用接着剤の販売とマーケティングの Thomsit Vertriebsgesellschaft mbH を設立しました。
ブエノスアイレスの Franchini Quimica SA を買収し、ヘンケルはアルゼンチンにおけるプレゼンスを強化。同社は Henkel Argentina SA に社名を変更しました。
1970
4 月、初の衛生専門家の国際科学会議「Düsseldorfer Hygienetage」が開催されました。この会議は 1996 年まで毎年開催されました。
ヘンケルは Creme 21 でハンドケア市場に参入。新しい食器洗剤 Dixi 、下洗い用の生物活性の衣料用粉末洗剤 X-tra が発売されました。
ミンデンの Cordes & Co GmbH がヘンケルに加わりました。1971 年には、Cordes と Sichel の弾性結合シーリング剤分野の活動を、Sistaブランドの下に統合。ヘンケルは、この分野において、国際的な専門企業となりました。
1971
ヘンケルはコスメティックとトイレタリー部門で活動するグループ数社を合併し、 Therachemie GmbH Düsseldorf を創立。社名は1974 年、 Thera GmbH kosmetische und therapeutische Erzeugnisse に、1989 年に Thera Cosmetic GmbH に変更されました。1997 年 1 月 1 日、クレーフェルトの 旧 Dreiring-Werke が Dalli-Werke Mäurer+Wirtz に売却されました。
さらに、外国の子会社の設立が続きます。ロンドンに Henkel Industries Ltd、アテネに Henkel Hellas SA、モントリオールに Henkel Chemicals (Canada) Ltd、香港に Henkel Chemicals (H.K.) Ltd (Vertriebsgesellschaft) を設立。1 年後には、ラゴスに Henkel Chemicals (Nigeria) Ltd.、バンコクに Henkel Thai Ltd が設立されました。
1972
イギリスで、ヘンケルは Gordon Slater Ltd を買収し、Henkel Chemicals Ltd に社名を変更しました。壁紙用のりのブランド、Solviteで有名な同社は、その後イギリスにおける市場リーダーになりました。
Kossack、 Sichel、Thompson-Siegel 社の床用接着剤事業が、 Thomsit ブランドの下で Henkel Bautechnik に統合されました。「Verkauf Sichel」(Sichel 販売)が、ヘンケルと Sichel and Cordes 社の塗装部門の製品を担当しました。
Der General が家庭用クリーナーの製品ラインに加わりました。
1973
リン酸塩代替物質 (Sasil) の特許を洗剤に利用する研究が行われました。テロソンが独自の研究開発ラボを設立しました。
Persil の処方が、再度変更されました。1959 年以来初めて、ヘンケルは Persil の名前と年号の組み合わせをやめ、ブランド名をより強調することになりました。
自動車産業向けの接着剤とシーリング剤の製品ラインに、膨張性の高いゴムベースのシーリング剤とテープ (Macroplast ブランド)が加わりました。
1974
デュッセルドルフ – ホルトハウゼンで、製造技術と化学プロセス開発のための生物学設備を始め、パイロットプラント、研究所、オフィスのための建設工事が行われました。
ヘンケルは、家庭用および大量に使用するお客様向けにヘンケルが開発した特定製品を製造・販売するため、アメリカのクロロックス社の株式を取得しました。フランス、ブッセンの Produits Chimiques du Sidobre-Sinnova SA の買収により、欧州で二番目の脂肪アルコールの事業所が開かれました。
1975
Henkel GmbH が、70 の子会社と関連会社から構成される「Kommanditgesellschaft auf Aktien (KGaA)」(株式による営利組合有限会社) とヘンケルの持ち株会社になりました。法律上KGaA の形式をとり、 1985 年には株式を公開することができました。
シュワルツコフが Bac デオドラントブランドと Hâttric 男性用製品ラインを持つ Olivin GmbH を買収しました。
ヘンケルが海外に拡大。シドニーの新しい Henkel Australia Pty Limited が、ヘンケル製品の現地マーケティングを担当するようになりました。グアテマラでは、1974 年に Quimica Henkel Centroamericana SA が設立され、中央アメリカ市場で事業を運営しました。1976 年、ベネズエラ、カラカスの Inversiones Androca SA が Henkel Venezolana になりました。また、1976 年には、ヘンケルは合弁事業 PT Henkel Indonesia を開始し、フィリピンのマニラに企業を設立しました。ジャマイカ、キングストンに は1970 年、Henkel Chemicals (Caribbean) Ltd を設立しています。
1976
この年は、ヘンケル 100 周年。ヘンケルはデュッセルドルフの Niederheid 運動公園と Art Restoration Center (1978 年に開設) を寄付しました。Konrad Henkel 博士が 1928 年の祖父 Fritz Henkel、1951 年の父 Hugo Henkel 博士と同様に、デュッセルドルフの名誉市民になりました。
初めての 60℃洗剤Mustang、ポリウレタンアッセンブリーフォーム製品を Assil ブランドから発売しました。
ヘンケルの研究者が、活性成分 HEDP (1-ヒドロキシエタン-1、1-ジホスホン酸) はカルシウムに影響を与え、歯石の形成を抑制することを発見しました。
1977
アメリカで、ヘンケルは General Mills Chemicals Inc と同社の日本、ブラジル、アイルランドの海外子会社を買収。General Mills Chemicals は、自然を原料としたビタミン E では世界の市場リーダーであり、銅抽出製品、ポリアミド、エポキシ硬化剤ではアメリカのトップメーカーでした。
Sasil を使用した初の低リン酸塩洗剤 Prodixan が試用に成功。ケーブル、ケーブル付属品、電気産業用のアッセンブリー用ホットメルト (Macromelt ブランド) が重要な事業セグメントになりました。
1978
衛生分野における優れた科学業績が認められ、第一回の Düsseldorf Hygiene Prize を受賞。この賞は、1976 年のヘンケル 100 周年を記念して設立され、1996 年まで、「Düsseldorf Hygienetage」で贈呈されました。
ミュンヘンの Omnitechnic GmbH Chemische Verbindungstechnik の買収で、1953 年にロックタイトの創業者 Vernon Krieble によって発見された嫌気性硬化型接着剤が、ヘンケルの製品ラインに加わりました。
メキシコシティで Grupo Quimico Mexicano が創立されました。
1979
絞り出し容器入りの Thera-med 歯磨きが、ヘンケルにデンタルケア市場への入り口を開きました。
低リン酸塩洗剤 Prodixan の成功の後、Sasil を配合した Weisser Riese も導入されました。
新しいバイオパイロットプラントと皮革パイロットプラントが、デュッセルドルフ – ホルトハウゼンで始動。
Chemische Fabrik Grünau が、環境に有害な化学物質と油を結合させる特殊な環境保護製品の開発を開始。油結合剤 Neocosal は初めての環境保護製品で、流出油から水を抽出することができました。
1980
アメリカで、Amchem Products Inc と Parker Chemicals (1987) を買収。金属表面の化学処理に用いる特殊製品や接着剤の専門メーカーである2社の獲得により、ヘンケルは自動車産業への参入を果たしました。ヘンケルは、米ミシガン州、デトロイトの DIY、家庭、学校用の接着剤メーカー Ross Chemical Co に加え、揺ぎ無いイギリスの接着剤ブランド Gloy も買収しました。
Konrad Henkel 博士が経営委員会と株主委員会の会長に就任。ヘンケル一族から社長兼最高経営責任者となったのは、Konrad Henkelが最後となりました。この位置を継承したのは、Helmut Sihler 博士でした。
リサイクル志向の製品、新しい水溶性ホットメルトが発売されました。
1981
1980 年、マレーシア、ポートケランに、主に油脂化学ベースの化学薬品を製造する合弁会社 Henkel Oleochemicals Malaysia (HOM) を設立。ヘンケルは 1998 年末までに、マレーシアに 7 社を所有。1982 年、ヘンケルはシンガポールに Henkel South East Asia Pte Ltd を創立しました。
低リン酸塩洗剤の Prodixan と Weisser Riese が市場で受け入れられた後、旗艦ブランド Persil も Sasil に切替えられました。同時に、初の衣料用液体洗剤が Liz ブランドから発売され、Poly ヘアコスメティックブランドからは初の泡カラーが発売されました。
1982
ヘンケルは、商業的にも成功を収めた社員の優れたアイデアを評価し、初の Fritz Henkel Award for Innovation を贈呈しました。
Verband der Chemischen Industrie (ドイツ化学産業組合) がヘンケルのデュッセルドルフのプラント消防局を含む Transport-Unfall-Informations- und Hilfeleistungssystem (TUIS) (交通事故情報および援助システム) を設立しました。プラント消防局は、化学薬品が関係する交通事故が発生した場合に職務上の緊急サービスをアドバイスし、サポートします。
1983
ヘンケルが Aok スキンケア製品ラインを von Heyden GmbH から買収し、コスメティックの小売事業の地位を強化。
ドイツ初の無リン酸塩衣料用洗剤が Dixan ブランドから発売されました。
森林の枝枯れをまん延させる主な原因は、窒素酸化物であると考えられています。大気を清浄に保つため、ヘンケル、デュッセルドルフの自社発電所の研究者は、窒素酸化物の生成を75 % 削減する産業プロセス (Herenox プロセス) を開発しました。
ヘンケルの研究所が界面活性体の生分解性を実演するための代謝体テストを開発。すでに 1980 年に、ヘンケルは動物実験の代替法として最初の生体外実験を導入していました。
1984
大規模な構造変更と近代化の作業が、デュッセルドルフ – ホルトハウゼンのグリセリン工場で行われました。変更の一部として、グリセリンを処理するトリアセチンプラントが始動しました。
Monarch/Adams Adhesives Ltd の接着剤事業の買収により、ヘンケルはイギリスの市場リーダーになりました。1988 年、イギリスでのヘンケルの全接着剤活動は Henkel Industrial Adhesives の活動として認識されるようになりました。また、ヘンケルは、化学クリーニングと床のケア製品の製造メーカーであるスラウの Brichem Group を買い取りました。
1985
株式が公開され、ヘンケルの優先株が証券取引所で取引されました。これに関連して、世界規模の財務諸表が初めて公開されました。1986 年 6 月、最初の公開年次総会が開催されました。
チリでは、ヘンケルは Quimica Härting SA (1993 年に Henkel Chile SA に社名変更) の 28 % の株式を、アメリカでは Loctite Corporation の 25 % の株式を取得しました。
シュワルツコフが、西欧企業では初めて、東欧の企業 (ハンガリー、ブダペストの Schwarzkopf Kozmetikai Kft) の主要株を取得しました。
経済学促進のため Konrad Henkel Foundation が、デュッセルドルフ大学に設立されました。
1986
1 月 1 日、ヘンケルは Chemische Fabrik Grünau GmbH を取得。この結果の 1 つとして、食品添加物事業が強化されました。オーストリアでは、Leifa ブランドでの Chemie Linz AG の接着剤活動が Henkel Austria Ges.m.b.H に譲渡されました。また、ヘンケルはイギリスの Samuel Jones & Co Ltd の Samson 接着剤事業を買い取りました。
1 月、無リン酸塩 Persil がドイツ、オランダ、スイス (後者 2 カ国は 1985 年末) で発売されました。オーストリアでは、1985 年 10 月に発売された無リン酸塩の「グリーン」の Persil がすでに市場シェアの 11.4 % を占めていました。
建設部門のポジション強化のため、ヘンケルは主要な国内会社 Beecham Group London の建設化学事業を買収。フランスの Rubson、イギリスの Unibond-Copydex Ltd、ドイツの Ceresit GmbH が 1905 年以降の建築事業での実績のあるパートナーです。Ceresit は 1990 年に Henkel Bautechnik に統合されました。
Henkel Research Corporation がカリフォルニア、サンタローザに設立されました。1991 年、同社はコグニスに統合されました。
1987
Nopco とも呼ばれるアメリカの Oxy Process Chemicals Inc を買収し、ヘンケルは北アメリカとアジアの特にコーティング & インク事業と、織物産業活動を強化。Henkel Colombiana SA がコロンビア、カリに設立されました。
シュワルツコフがすべての製品ラインを CFC 無使用エアロゾルに変換し、ドイツの先駆者となりました。
ヘンケルが企業のガイドラインを発表。このガイドラインでは、企業の目標として、利益の生成と同じレベルに環境保護が置かれていました。対応する内部プラント契約が 1989 年に提携されました。
1988
中国と西欧間の政情緩和により、ヘンケルは北京に連絡事務所を開き、747 メートルの万里の長城の修復を支援。現在、ヘンケルは中国に 15 を超える企業と合弁事業を持っています。
ヘンケルの売上高が、初めて 100 億独マルクを超えました。
1984 年の独自の研究により、ヘンケルはアメリカの Staley Continental Inc の Horizon Chemical Division からアルキルポリ配糖体のノウハウをさらに修得。アルキルポリ配糖体は1990 年以降、特に刺激の少ない洗浄活性原材料として、家庭用クリーナー、ボディケア製品に配合されています。
1989
世界のすべてのプリット製品が無溶剤になりました。現在、ドイツのすべてのヘンケル洗剤は無リンです。
ヘンケルはポリウレタン接着剤と接着剤ガラス繊維強化エポキシ化合物で、自動車産業での地位を拡張。無包装の粘着ホットメルトが不職布市場に導入されました。
アメリカでヘンケルは、オハイオ州、シンシナティの Emery Division を Quantum Chemical Corporation から買収し、油脂化学ベース材料の世界リーダーの位置と、オゾン分解の技術リーダーの位置を強化。また、ヘンケルは設備クリーニングおよび産業クリーニングの世界最大級の製品サプライヤー社である Ecolab Inc の 12 % の株式を取得しました。
1990
Konrad Henkel 博士が経営委員会と株主委員会の会長を、ヘンケル創立者の曾孫、Albrecht Woeste Dipl.-Ing. に譲り、自らはヘンケルの名誉会長になりました。
コンパクト洗剤 Persil supra発売。ヘンケルは、ゲントヒンにある東ドイツプラントを買い戻しました。同プラントの Spee 洗剤が再配合され、全ドイツ市場で手頃な価格の衣料用洗剤と位置付けられました。
グローバル市場に展開するソフトドリンクのメーカーが、製品を返却可能なプラスチックボトル (PET) で提供できるようにするため、ヘンケルはペットボトルのラベル付け用に特殊接着剤を導入しました。
中欧および東欧で共産主義の時代が終焉するとともに、ヘンケルの戦略に新たな選択肢が加わりました。ロシアへの拡大は、Chimvolokno 洗剤プラントの株式取得で始まりました。その後、ポーランド、Staporków に Henkel Bautechnik Polska Sp zoo を設立。ウィーンを拠点とする Henkel Austria は、中欧と東欧へのヘンケル拡大を包括的に管理する責任が与えられました。
1991
ハイデルベルクのテロソン (1898 年創立) が買収され、ヘンケルの接着剤および表面技術事業部門に統合されました。
初の色物用洗剤 Persil Color を発売。
ヘンケルは、コグニスの名称で、バイオテクノロジーと環境技術に関する子会社を創立。Loctite Engineering Center for Europe がミュンヘン – ガルヒングに開設されました。
香港の Henkel Asia Pacific が持ち株会社としてアジア太平洋地区の管理を引き継ぎました。
ヘンケルは産業企業としては世界で初めて、国際商工会議所の持続可能な発展のための産業界憲章に署名した企業のひとつです。
1992
Helmut Sihler 教授・博士が、株主委員会に加わり、社長兼 CEO の地位を Hans-Dietrich Winkhaus 博士に譲りました。
自然にある原料を使用した完全生分解可能界面活性剤のアルキルポリ配糖体 (APG) が、米オハイオ州、シンシナティの Emery Group によって、初めて産業規模で製造されました。1995 年、ヘンケルはデュッセルドルフ – ホルトハウゼンで 2 つめの APG 製造ラインを建設。
ヘンケルの研究所が、油に汚染された土壌の改善のための Biocrack を開発。
ヘンケルは、最初の年次環境レポートを発表しました。
1993
スペイン、バルセロナの Chemicals 子会社の Pulcra が、洗剤とコスメティックの柔軟剤として、環境に適合する esterquat を製造。トルコの商業組合は Türk Henkel に最も環境に優しい企業として賞を授与しました。ヘンケルは、ゴミ削減のため、洗剤と一部の接着剤で詰め替えパックを使用するよう消費者に呼びかけました。
1994
特許を取得した高濃縮洗剤、Megaperls の製造がデュッセルドルフ – ホルトハウゼンでスタート。Persil Megaperls が発売されました。ヘンケルは近隣諸国にも、高濃縮洗剤を速やかに導入しました。
1996 年、Weisser Riese Megaperls と Spee Megaperls がドイツ市場に登場しました。
ヘンケルは、技術的なリーダーシップだけでなく、企業哲学に則り、環境におけるリーダーシップも発揮していくことを宣言。
1994 年、洗剤と家庭用クリーナーの長距離輸送のほとんどが道路から鉄道輸送へと転換されました (エコロジスティクス)。
持続可能な発展のための産業界憲章へのコミットメントの一環として、ヘンケルはグローバル・レスポンシブル・ケアの概念を発表。世界におけるヘンケルの使命、原則、戦略が冊子にまとめられました。
1995
ヘンケルはコスメティック企業、Hans Schwarzkopf GmbH を買収。1997 年の統合後、ブランド製品事業部門がデュッセルドルフの Schwarzkopf & Henkel Cosmetics GmbH に、ヘアサロン製品はハンブルグの Hans Schwarzkopf GmbH & Co KG (Schwarzkopf Professional) で扱われることとなりました。
プロ用および DIY 部門の接着剤のトップサプライヤーである LePage's Ltd を買収し、ヘンケルはカナダにおいて、このカテゴリーの市場リーダーになりました。1996 年、ヘンケルは結合シーリング剤とアッセンブリー用接着剤のメーカーで、LePage に合併された Canadian Adhesives Ltd を買収しました。
ドイツ、ボッフィンゲンの Dr. Rudolf Schieber Chemische Fabrik GmbH + Co KG(1893 年創立) が買収されました。1998 年、同社は 1991 年にヘンケルによって創立され、ドレスデン近郊のハイデナウに本部があった Citax Klebetechnik GmbH に合併され、木材加工産業の完全な製品レンジを持つ専門企業 Dorus Klebetechnik GmbH & Co KG になりました。2000 年には、ヘンケルとしては世界最大規模で、欧州で最も発達したホットメルト製造プラントが同社で稼動しました。
ヘンケルはPelikan Holding AG から、ドイツ語圏以外の国における、修正ローラーと糊付けローラー方式の製造、開発、マーケティングの権利を取得。2000 年以降はマーキングに関する権利もこれに加わりました。1989 年以降、プリットのりのローラータイプが欧州の数カ国で発売されました。
スイスの企業 Laesser を買収し、世界のタバコ用接着剤の Center of Competence がチューリッヒに設立されました。
1996
ヘンケルは、室内の空気を汚さない新世代の無溶媒 Thomsit 床用接着剤の製造を開始しました。
United Resins Products を買収し、ヘンケルはホットメルト分野の地位を強化。製造事業所を追加したことで、ヘンケルのアメリカでの市場範囲が広がりました。自動車産業の接着剤とシール剤の Thiem Automotive Division の買収でも同様に市場範囲が広がりました。金属表面処理の専門企業である、ジョージア州、アトランタの Novamax Technologies Corporation も、ヘンケルの一員となりました。
オーストラリアとニュージーランドの梱包接着剤で市場リーダーである、メルボルンの N.B. Love Adhesives を買収しました。同社は、これらの国において産業接着剤で最大級のサプライヤーでもありました。
1997
ヘンケルは、さまざまな合弁事業に投資し、新しい企業を創立し、既存の企業を買収して、特にアジア太平洋地区での事業を拡張しました。上海交通大学との合同プロジェクトでは、Henkel (China) Investment Co Ltd は上海に Jiao Tong Management Training Center を設立しました。
ヘンケルは、DIY と家庭用接着剤の最大のサプライヤーで、チップ接着やマイクロエレクトロニクスなどの小型化に特に優れたロックタイト社の全株を取得。エンジニアリング接着剤における世界トップの特殊企業、ロックタイトの統合で、ヘンケルは接着剤の確固たる世界市場リーダーの位置を獲得。アメリカを始め、世界中で販売体制を強化しました。
ヘンケルの売上は 200 億独マルクを超えました。
1998
世界に新風を吹き込む製品、Persil Tabs が発売されました。ヘンケルの洗剤をはじめ、その他の製品ファミリーにも新らたな技術が使用されました。もう1つのプレミアム製品、Poly Re-Nature Creme は、白髪を元の色に戻す製品です。
アメリカでヘンケルは、オハイオ州、エイボンの Manco Inc の過半数の株式を取得し、北米のブランド接着剤市場でのポジションを大幅に強化。ヘンケルは、北米における消費者用接着剤のトップサプライヤーになりました。Manco には、アメリカでの LePage 製品の販売とマーケティングが任されました。
ヘンケルは、米カリフォルニア州、ロサンぜルスのDEP Corporation を買収し、アメリカのヘアケア市場に参入。ノルウェー、トロムセの合弁事業 BioHenk AS がえびの殻を処理してコスメティック産業用の新しい原材料を作りました (キトサンブランド)。
1999
8 月 1 日、ヘンケルの化学製品事業部門が分割され、コグニスの企業名で法的に独立した事業体になりました。ヘンケルのすべての化学薬品子会社は、オランダ、ルールモントの持ち株会社 Cognis BV に統合されました。新しい企業の本部もここに置かれました。旧 Cognis Biotechnologie はヘンケルの中央リサーチにすでに統合されていました。
4 月 24 日、ヘンケルの名誉会長、Konrad Henkel 博士が、83 歳で死去。6,000 人を超える従業員と退職者が、ヘンケルのデュッセルドルフ本部のレセプションホールで別れを告げました。
ヘンケルは、コスメティック用の再生可能な原材料の主要な製造者である French Laboratoires Sérobiologiques Group を買収。同グループはコグニスに統合されました。
Hamburg Environmental Institute による主要化学薬品グループ 50 社の分析で、ヘンケルはエコロジーの評価において 2位を大きく引き離し、世界 1 位となりました。
2000
Ulrich Lehner 博士が Hans-Dietrich Winkhaus 博士から Henkel KGaA の社長兼 CEO の地位を引き継ぎました。Winkhaus は株主委員会の Helmut Sihler 教授・博士の後任となりました。
欧州のスキンケアブランド、Diadermine がドイツで発売されました。
50 社の応募の中から選ばれた唯一の企業として、ヘンケルはスペースシャトルで使用される接着剤サプライヤーとして承認されました。
ヘンケルは、新事業として、インターネットのエレクトロニクス市場に参入。SAP、 ネスレ、ダノンとともに、仮想市場を設定し、化学製品と製薬製品のインターネット市場に BASF、Degussa-Hüls、Metallgesellschaft とともに参加しました。
ヘンケルは、日本、中国、アメリカで新しい企業を設立し、既存の企業を買収して、その地位を強化しました。
2001
ヘンケル 125 周年記念の企業スローガンは、
「125 years.focus:future.」でした。ヘンケルは、グローバル事業戦略を、ブランドとテクノロジーズの2路線に再編しました。
化学製品事業部門のコグニスを、非公開投資会社のコンソーシアムに売却。欧州の合弁事業 Henkel-Ecolab は解散しましたが、エコラボの戦略株主所有権は維持されました。
新しいスローガン (A Brand like a Friend)、新しい企業ビジョンと 10 項目の新しい企業バリューによって、方向転換が図られました。ヘンケルの企業デザインも合わせて変更されました。
ヘンケルは125周年を祝うにあたって、世界共通のプログラムを採用しました。このプログラムは、世界各地で社員がサポートする125件 の子供向けプロジェクトに対し、それぞれに最大 12,500 ユーロを援助するものでした。デュッセルドルフの企業本部では、ヘンケルはベンラート城の保存に 800 万ユーロを寄付しました。
2002
ヘンケルは、スローガン「ヘンケル - A Brand like a Friend」と新企業デザインを用いて、初めて世界で使用する標準イメージを作成。ヘンケルの新しいアイデンティティは、グループのために特別に製作された革新的なコーポレートソング「We together」によっても、強化されました。
2002 年に、ヘンケルは以下を買収しました。
- Henkel ENAD Algeria (HEA) 合弁事業を通じて、アルジェリアの Chelgoum Laid 洗剤製造会社
- 接着剤とシーリング化合物のスペインの製造会社である、バルセロナの Solyplast S.A.
- 日本、東京のセメダイン株式会社の 100 % 出資子会社の Cemedine U.S.A., Inc.
- イギリス、ベッドフォードシャー、ダンスタブルの Verdoso Holdings Ltd. のセロテープ事業
8 月、アメリカの保健機関が、アメリカ市場向けのヘンケルロックタイト組織細胞接着剤Indermil を承認。現在、この創縫合用接着剤は世界中で認可されています。
2002 年の 9 月末、ヘンケルは 2300 万ユーロの建設費をかけて、横浜の「ヘンケルロックタイトテクノロジーセンター – アジアパシフィック」を開設。アジア地区のヘンケルテクノロジーズのお客様に、個別にカスタマイズされた製品とシステムソリューションを提供します。
ドイツの破滅的な洪水で、80,000 人を超える人が家をなくしました。異例の献金プログラムでは、ヘンケルの社員と定年退職者が洪水被災者にほぼ 274,000 ユーロを寄付しました。ヘンケルはこれに、300,000 ユーロを追加して寄付しました。
ヘンケルは、チェコ共和国とオーストリアにも援助を提供しました。ハンガリー、スロバキア、ポーランド、ルーマニアにあるヘンケルが、必要な援助を送り、チェコ共和国の被災地を援助しました。
2003
工業用接着剤、シーリング剤、表面処理技術の市場リーダーであるヘンケルテクノロジーズが、 7 月 1 日付で再編成されました。9 月 1 日、ヘンケルはグアテマラのラ・ルスの洗剤製造会社の過半数の株を取得し、この合同事業でラテンアメリカでの事業を拡張しました。
12 月、ヘンケルは米アリゾナ州、スコッツデールのダイアル社買収の意向を発表。洗剤と消費者製品で一流の製造会社であるダイアルは、アメリカにおけるヘンケルのブランド製品事業の拡張を可能にします。買収は 2004 年 4 月に完了することが計画されました。
ヘンケルは、カリフォルニアの Advanced Research Laboratories (ARL) の計画的買収でヘアケア部門を強化しました。
社会面では、3月に5周年を迎えたMIT イニシアチブ(MIT はドイツ語の「Miteinander im Team」) の結果は、大成功を収めました。ヘンケル社員がボランティアとして関与した 1,067 のプロジェクトに合計 250 万ユーロを寄付しました。11 月、ヘンケルは国連のグローバルコンパクトに参加し、人権の尊重を確認しました。しかし、基本的な労働水準の順守や環境の保護は、ヘンケルでは以前から日常業務で実践されてきました。
2003 年は、ヘンケルの多くのブランドにとって、記念すべき年になりました。ロックタイトブランドは 50 周年を迎え、F1 準優勝のキミ・ライコネンから祝辞を受けました。それまで9 年間、ヘンケルテクノロジーズはロックタイトによって F1 のリーダーを支えてきました。壁紙用のりMetylanも、50 年という歴史の節目を迎えました。現在、Metylanはドイツの市場リーダーであり、30 カ国で使用されています。Schauma ブランドは100周年を祝うにあたり、ドイツの有名人 Verona Feldbusch を起用して、ボリビアの SOS 子供の村の大規模なチャリティーキャンペーンを行いました。1903 年に最初の粉末シャンプーを発売して以来、Hans Schwarzkopf は瞬く間にドイツ国民のハートと、頭をつかみました。
2004
米アリゾナ州、スコッツデールのダイアル社の買収は、ヘンケルの歴史上最大の買収です。この名高いアメリカの洗剤と消費者製品メーカーは、ヘンケルにとって北米市場の強力な足場となります。ヘンケルは、革新的で、高品質のヘアケア製品を 20 年以上にわたって開発、販売している、アメリカのヘアケア企業 Advanced Research Laboratories (ARL) も買収しています。
その他の重要な買収には、アメリカの防音製品と自動車ボディー用シーリング剤メーカー Orbseal LLC と、アメリカの接着剤会社 Sovereign Specialty Chemicals がありました。ヘンケル史上の重要な出来事は、クロロックス株式全体の 28.8 % (約6140 万株) のヘンケル保有分を、事業運営の製品ラインを維持しながら、新しく形成するクロロックスの子会社と交換したことです。この交換には、Soft Scrub® と殺虫剤事業の Combat®、Home Mat®、Home Keeper®のブランド製品ほか、Henkel Ibérica へのクロロックスの 20 % 資本参加、現金約 21 億米ドルが含まれます。
ヘンケルは2004 年に完了したすべての買収により、現在アメリカで是売上高の約 25 %を生み出しています。
1954 年、クレンジングとスキンケアに魅惑的なフレグランスを組み合わせた高級せっけんとして登場したFaは、2004 年にブランドとして金婚式にあたる50周年を迎えます。現在も、Faは146 カ国の人を爽やかにする、ヘンケルの最も国際的なコスメティックブランドです。この年はまた、ヘンケル最古参の産業ブランド 、P3 の 75 周年でもありました。金属表面の技術産業クリーナー P3 は、ヘンケルテクノロジーズ事業部門で長い歴史を誇る事業の 1 つです。
「ヘンケルの品質」の約束については、www.quality-from-henkel.com で、ヘンケルの製品情報ならびに関連情報をご確認いただけます。クリック 1 回で、様々なオンラインアドバイスを得ることができます。
2005
ヘンケルの上級経営者3名(Knut Weinke、Klaus Morwind 博士、Uwe Specht教授・博士)が、経営委員会の職を退きました。ヒューレットパッカードで欧州、中東、アフリカを担当していた Kasper Rorsted が 4 月 1 日付で Knut Weinkeを引き継ぎ、人事/物流/IT/インフラストラクチャサービス管理担当の取締役副社長に就任しました。Friedrich Stara博士はKlaus Morwind 博士の後任で、ランドリー & ホームケア事業部門の取締役副社長に就任。Stara は1976 年以来ヘンケルに従事し、それ以前はヘンケルの中欧、東欧担当代表でした。Uwe Specht 教授・博士コスメティックス/トイレタリーズ事業部門の管理を Hans Van Bylen に引継ぎました。Hans Van Bylen は 1984 年以来ヘンケルに勤務し、以前は全世界のヘアケアと海外コスメティックの責任者でした。
ヘンケルは、中国で新しい合弁事業で、アジアでのエレクトロニクス事業を強化。11 月、ヘンケルは中国、江蘇省、連雲港の Huawei Electronics Co. Ltd. の過半数の持ち株を取得しました。Huawei Electronics は、中国の半導体用エポキシシーリング樹脂のトップメーカーです。
Taft 製品ラインが、 50 周年を迎えました。1955 年、シュワルツコフは、ドイツ初のヘアスプレーであるこの製品を「いつまでもフレッシュなスタイルを」のスローガンで発売しました。現在、Taft は世界 32 カ国で販売され、8ライン、63 製品を誇っています。
政府が計画した、家族、高齢者、女性、青年のためのコンクール「Success Factor Family 2005」において、ドイツで最も家庭に優しい企業との賞賛を受けました。大臣の Gerhard Schroeder 自ら、ヘンケル会長 Ulrich Lehner に対し、仕事と家庭の両立に関する問題の解決について素晴らしい企業コミットメントの実績を称えた賞を授与しました。
ナスカーシリーズに初めてスポンサーとして参加し、ヘンケルは北米トップの自動車レースイベントに参入しました。消費者や工業用に使用される多数の有名ブランド製品を持つヘンケルが、北アメリカでの知名度を上げることを目的としていました。
2006
130 年にわたる事業の中でヘンケルは、 2006 年を「イヤー・オブ・イノベーション」としました。この年には、世界中の全社員から、新ブランドや製品の処方、パッケージの改良、開発や生産プロセスの効率化に関して、 80,000 件を越えるアイデアが寄せられました。イノベーションキャンペーンは 2007 年と 2008 年にも継続しています。
ヘンケルは事業の成功をさらに継続させる基盤を築きました。2007年1月1日付けで、株主委員会は経営委員会メンバーであり、2005年4月から人事/購買/IT/インフラストラクチャサービスを担当する Kasper Rorsted (44) を経営委員会副会長に任命。2008 年の年次総会では、Rorsted が経営委員会会長に指名されます。同日予定どおり退任するUlrich Lehner 教授・博士 (60) は、短いブランク期間を除き1981 年の入社以来長くヘンケルに貢献し、2000 年 5 月から同職を務めました。
ヘンケルは、Right Guard、Soft Dri、Dry Idea などのアメリカのリーディングデオドラントブランドを買収し、コスメティック製品分野でアメリカ最大級のサプライヤーの 1つになりました。アリゾナ州、スコッツデールのヘンケル社本部の建設工事が 12 月中旬にスタート。2008 年中頃から社員約 800 名が、21,000 ㎡ のオフィススペースと 12,000㎡の研究室および技術設備からなる複合施設で業務に従事します。
ヘンケルは、中国での事業活動拡張をさらに強化。上海で、 Henkel Asia-Pacific の新拠点本部建設は 7 月に始まりました。間もなく、すべての企業部門が1つ屋根の下で働くようになります。
ヘンケルは、9 月 26 日に 130 歳の誕生日を祝います。前年同様、企業の記念日は、世界中のさまざまな場所で「Friendship Day」として行われ、社員には「フレンドリーなサプライズ」が用意されていました。
2007
Persil が 100 周年を迎えました。「Pure into the future」をモットーに、由緒あるブランドは特別デザインのボックス入り洗剤と、革新的なボトル入りの Persil Gel で記念の年を祝います。7 月末までには、Persil Future Ship がドイツの 18 都市を周り、ビジターに刺激的な Persil の世界を展示。Persil は「Project Futurino」イニシアチブに 100 万ユーロの寄付も行います。Persil からの惜しみない支援により、40,000 人以上の子供が支援を受けます。
ヘンケルは、30 年以上にわたって会社に献身したJochen Krautter 博士に別れを告げます。最高経営責任者のひとり、シュトゥットガルト出身の同氏はヘンケルでは 11 の役職を経験。Krautter は 1973 年に役員補佐としてヘンケルに入社しました。その後 2000 年に最高財務責任者に任命され、2003 年 7 月にはヘンケルテクノロジーの経営を担当。その後、Alois Linder とともに新しい接着技術事業部門の責任者になりました。この新部門は 4 月上旬に設立され、消費者用および業務用接着剤部門がヘンケルテクノロジーに合併しました。現在は、Krautter の引退後、Alois Linder が単独で経営運営しています。
伝統的な龍の踊りが、上海の Henkel Asia-Pacific & China の新本部の公式オープニングを祝福しました。。
ヘンケルはグローバル国際ホームページ www.henkel.com で、すべての Web 事業所情報を網羅しています。北アメリカ、ドイツ、イギリス & アイルランド、中欧/東欧、メキシコ、アンデス地方、スウェーデン、フィンランド、ノルウェー、デンマーク用の新しい Web サイトも 2007 年に作成されました。
2008
年次総会の終了をもって、Henkel Management AGが、唯一の信頼できるパートナーとしてHenkel KGaA に加わりました。会社名はHenkel AG & Co. KGaA となりました。
2008には、トップマネジメントに2つの変化がありました。社内規定で決められた定年に達したことで、Dr. Ulrich Lehnerが、予定通り年次総会の日にHenkel KGaAの経営委員会会長の職を退きました。Henkel Management AGの経営委員会会長であった、デンマーク人のKasper Rorsted(1962年生)が、そのポジションを引き継ぎました。さらに接着技術部門の上級副社長であるAlois Linder が、2008年6月をもって経営委員会を去りました。後任はThomas Geitner (1955年生)となりました。
2008年4月3日、ヘンケルはAkzo Nobelから、以前National Starch が所有していた接着剤と電子材料事業を引き継ぎました。これらの事業を買収したことで、ヘンケルは世界の接着剤市場、特に工業用セグメントでのトップの地位を大幅に強化しました。National Starch事業と、既存のヘンケルの接着技術ポートフォリオは、お互いを見事に補完しあっています。11月には、ヘンケルはこの取引の資金調達のために、所有していたEcolab Inc.の株式を売却しました。
2008年も、ヘンケルは数々のイノベーションに着手しました。以下に、そのうちのほんの一部を記述します。
2008年秋、ヘンケルは新しいTerra Activ ブランドで、家庭用クリーナーの幅を広げました。Terra Activ は、家の中を輝くばかりにきれいにします。材料の大部分を再生可能な原料にし、パーム核油のみを使用したことで、Terra Activ は熱帯雨林の保護を推進しています。Terra Activシリーズは、手洗い用食器洗剤、家庭用万能クリーナー、トイレクリーナー、バスクリーナー、ガラスクリーナーの5種類の製品で構成されています。
Coloristeは、わずか10分で髪にはっきりとした輝く色を与える、シュワルツコフで初めての永久型ヘアカラーです。特許出願中のアルギニン処方が、着色の効率性を上げ、カラーリング中の髪へのダメージを最小限にします。
Loctite瞬間接着剤Flex Gelは、木、金属、プラスチック、ゴム、革の表面を強力に接合するため、屋内、屋外両方の用途に適しています。この製品は柔軟性があるため位置の合わせ直しも可能で、ゴムの微粒子が基となっています。耐久消費財を素早く確実に修理し、寿命を伸ばしてリソースを節約します。
11月に、ヘンケル経営委員会会長であるKasper Rorstedは、3つの新たな戦略プライオリティと、2012年に向けた財務目標を提示しました。
戦略プライオリティは以下の3つです。
- ビジネス・ポテンシャルを最大限に発揮する
- お客様中心の姿勢を追求する
- グローバルチームを強化する
そして、ヘンケルの2012年に向けた財務目標は以下の通りです。
- 既存事業の平均年間成長率3~5%
- 調整後の営業利益率14%
- 1株あたりの利益率平均10%以上
ヘンケルはまた2008年に、2012年に向けたコーポレート・サステナビリティの達成目標を定めています。
- 生産量1メートルトンごとのエネルギー消費量、及びそれに伴う二酸化炭素の排出を15%削減
- 生産量1メートルトンごとの水の消費量を10%削減
- 生産量1メートルトンごとの廃棄物の発生を10%削減
- 長期目標:労働災害ゼロ 中間目標:2012年までに20%削減
2008年12月、初めて開かれたドイツサステナビリティ会議において、ヘンケルはドイツで「最もサステナブルな(持続可能性のある)ブランド」であると認められました。ドイツ・サステナビリティアワードは、他の企業の模範となるような経済的成功と、社会的責任、環境保護を兼ね備え、さらなる成長のためのサステナビリティの発展の原則を適用している企業に対して贈られます。
2009
化学者ハンス・シュワルツコフがベルリンに小さな薬局を開いたのは111年前のことでした。今やシュワルツコフは、親会社ヘンケルにおける最有力ブランドのひとつであり、ヘアカラー、ヘアケア、スタイリングのカテゴリーであらゆる製品を取り扱っています。多年にわたって大幅な成長を遂げ、マーケットリーダーの一角を占めるシュワルツコフは、一般消費者用ブランド(シュワルツコフ・リテール)のほか、プロフェッショナル用(シュワルツコフ・プロフェッショナル)製品も取りそろえています。弊社は革新的な製品技術の開発に注力し、これまでに申請したパテントは7,600件を越えています。シュワルツコフは最新のイノベーションを的確に把握し、開発や技術革新の数々で、市場に大きな変革をもたらしました。
2009年、ヘンケルはまたも多くの革新的な製品を発表しましたが、その一部をご紹介しましょう。ヘンケルの新製品”Persil ActicPower” によって、洗濯の方法が幅広く選べるようになりました。“Persil ActivPower”は、摂氏15度からでも効率良く高い洗浄力を発揮する、大変経済的な洗剤です。小さくて手頃なボトル入りです。
お求めやすい価格設定のサイオス・プロフェッショナルヘアケア。スタイリストの皆様の協力のもと開発・テストされた処方により、毎日の暮らしにヘアサロン基準の髪の美しさをお届けするサイオス製品は、一般小売店で購入できます。サイオスの新発売は、ヨーロッパで2009年ヘアケア部門最大の成功をおさめました。
“Technomelt Supra Cool 130”で、ヘンケルは初めてSupraホットメルトの塗布温度を平均40度℃低減し、130℃に引き下げることに成功しました。これにより、エネルギーコストが30%節約できるだけでなく、接着剤の消費コストも、EVA系ホットメルトに比べ20~35%低減できます。
2009年9月、ヘンケルの監査委員会ならびに株主委員会にも“チェンジ”が起こりました。ヘンケルの監査委員会および株主委員会の議長職を後継者シモーヌ・シモーネ・バジェル-トラー博士に引き継ぐことにより、アルブレヒト・ヴェステは、ヘンケル家第4世代から第5世代への移行をを完了しました。9月18日、ヘンケルの株主委員会は、新たにシモーネ・バジェル-トラー博士を議長に選出しました。9月22日、彼女はヘンケル監査委員会の議長にも選ばれています。2つの経営監視組織トップに関するこの“チェンジ”は、2008年春のヘンケル年次株主総会ですでに発表されたものです。
2010
Henkel achieved sales of 15,092 million euros and an adjusted operating profit of 1,723 million euros. This was the most successful year in the company’s history. The three business sectors Laundry & Home Care, Cosmetics/Toiletries and Adhesive Technologies achieved record sales and profit levels.
Henkel has defined a new vision: “A global leader in brands and technologies”. And in striving to achieve this goal, everyone at Henkel is guided in their daily activities by five values: customers, people, financial performance, sustainability and family. Participating in around 5,000 workshops, all employees discussed how our vision and values can be effectively implemented within their working environment.
2011
Henkel is introducing a new corporate design across the company in combination with the launch of its new claim “Henkel – Excellence is our Passion”. “Our new claim summarizes what we stand for as a company and with our brands and our people around the world: we strive to be the best in everything we do,” said Kasper Rorsted, Chairman of the Henkel Management Board.
January 1 saw Jan-Dirk Auris and Bruno Piacenza take up their posts on the Henkel Management Board. Auris has assumed responsibility for running the Adhesive Technologies business sector. Piacenza also joined the Board at the start of the year, being due on March 1 responsible for the Laundry & Home Care business sector.
In January 2011, Henkel established the Fritz Henkel Foundation. In the future, the foundation will serve as the umbrella for our social engagement. The establishment of the foundation underscores Henkel’s long-term commitment for societal concerns that extend beyond its direct business interests. The mission of the foundation comprises support for volunteer work on the part of our employees, international disaster aid, and corporate and brand engagement.